“普通”は節約である (2021.12.08 vol.034)

めちゃくちゃ久しぶりにはてなブログ開くな~…と思いつつ、いざ開いたら前回から1ヶ月しか経っていないことに驚きました。それなりに濃厚な1ヶ月を過ごせているらしいです(?)どうも、うぐです。

今回のテーマは“普通”ということですが、正直この言葉を聞くと「普通、ねぇ……( )」と捻くれてしまいます。世間の“普通”に属さないことが多いので、この言葉自体に疎外感を感じてしまうんですよね。

(追記:私が「みんなは普通で私だけ違う」と感じていても、もしかしたら私が普通だと思ってるその人も同じ悩みを抱えているかもしれなあで、そうすると“普通”なんてものはあるようでない虚構の存在なのかなぁと思いました)

ということで、そんな私が“普通”について持論を展開しても暗くなるだけなので、今日は私が“普通”について見聞きした話で「なるほどねぇ~」と納得した話をしようと思います。

 

世の中になぜ “普通”や“定番”が存在するのか。
それは「悩まなくていいから」

普通や過去の経験というのは一種の思考停止です。

「皆が良いと言っているものは良いものに違いない」「前に食べて美味しかったから今回も美味しいだろう」などという安心感から、たいして調べたり比較したりもせずその商品を選んでしまう。

とても恐ろしい誘導ではありますが、それは時にとても便利です。

なぜなら“普通”があることで『そんなに時間をかけなくてもいい選択』に時間を費やさないからです。

例えば「明日会社にどんな服で行こう?」とか「明日何時に会社に行こう?」とか、毎日毎日『どうしたら自分にとって一番得があるだろう』とイチから考え直していたらキリがないですよね。

そんな時「周りに合わせればいいや」とか「昨日と同じでいいや」といった“非合理的”で適当な思考が自分を助けてくれるわけです。

もしかしたらそれは自分にとって最善の手じゃないかもしれない。でも、今よりは絶対損をしない。人間は「得をしたい」気持ちより「損をしたくない」気持ちの方が強い生き物なので、つい失敗しない“普通”を選ぶんだそうです。

これは行動経済学や心理学で研究されている人類共通の思考なので、冒頭でお話した『マジョリティとマイノリティが存在する普通』とはまた別の、ある意味 “本当の普通” なんですよね。

“普通”や“当たり前”という言葉で括られるのが嫌いな私でも、人間の心理には抗えないのだなぁ……と思うとなんだか皮肉っぽくて面白いなぁと思います。

マイノリティ自体はなくならなくても、マイノリティが肩身の狭い思いをする世界じゃなくなればいいなぁと願いながら、これからも最高の“異担侍”を応援していきたいと思います。

 

おしまい。

音楽を浴びる (2021.11.03 vol.029)

その言葉を聞いて思い出すのは、やはりライブハウスの客席に立っている時のこと。ジリジリと身を焦がすような照明に打たれ、ライブの始まりを今か今かと待つ高揚感。ギャーンッと劈く耳にはきっと良くないであろう爆音とともに上がっていく会場のボルテージ。

もう2年も3年も体感していないあの感覚を、私は今でも鮮明に覚えてる。“音楽を浴びる”とはそれほどに中毒性のあるものなのだろう。

────と、文学的に始まりましたが(黒歴史必至) 私はめちゃくちゃ好きです。ライブハウスで“浴びる”音楽。地面からベースやドラムの音が心臓に響いて、真正面からギターの音が突き刺さって、ボーカルの声は時に体を包み込み、時に心をグッと掴んでステージ側に引き寄せてくる。

(恐らく)アイドルのファンの方が多く見ているであろうブログで言うことではないかもしれませんが、アイドルのコンサートでは得られない快感があるなと思います。もちろんコンサートではコンサートでしか味わえないものもあります。どちらも大好きです。

そんな“アイドルのコンサートでは得られない”であろうはずの感覚を、私は7 MEN 侍のサマステに行った時に感じました。
主にNEW ERA、Rollin'辺りですかね。衝動的に拳を突き上げ、頭を振りたくなり、所謂“ライブハウスでのノリ方”をしたくなりました。(EXシアターという会場のバフもあるかもしれません)
やはり7 MEN 侍の音作り、そして矢花さんのパフォーマンスは、私のような楽しみ方をする人間を惹きつけるのかもしれないなぁと感じました。


話は変わりますが……

私がザ・クロマニヨンズのライブに足を運んだ際、ボーカルのヒロトさんが最後の挨拶で「俺は今日この日ために生きてきた」「今日のこのライブのために生きてきた」と熱く言葉を発してくださったことがありました。

その公演はザ・クロマニヨンズにとって特別な日でも、特別な場所でも、ツアーのオーラスだった訳でもありませんでした。

私はその公演がヒロトさんにとって“数十回あるうちの一回”じゃないことがとてもとても衝撃的でした。毎公演、毎公演、この日のために日々を重ねてきたのだと言えるほど、想いを込めてくださっていることに感動しました。もう5年以上前の出来事ですが、今も時々思い出しては胸を強く打たれます。

何気ない日でも「今日この日のために生きてきた」のだと思うと、自分の過去に自信が持てるような気がしました。

そんな人生を支える言葉をくれるきっかけとなったライブが、音楽が、私はこれからも大好きです。

あー!早く超満員のライブハウスで騒ぎたい!

 

頭が回る時期 (2021.09.29 vol.024)

 

こんばんは、うぐです。

今日は水バナの感想…というよりか、ほぼ自分語りです(いつものことでは?)
超簡単に言うと「”ダーク期”めちゃくちゃわかるよ」という内容です。

今日の矢花さんの”ダーク期”のお話、読みながら(わかる、わかるよ……)とぼろぼろ泣いてしまいました。矢花さんに対する同情とか苦しみじゃなくて、自分に対しての涙ですね。自分の悩みに「辛いよね、分かるよ」と寄り添われて安心するあの感じです。私と似たような波長の人がいるんだなぁ…という安堵のような。

私もネガティブな方面に対してだけめちゃくちゃ頭が回る時期があります。

きっかけは誰かの言葉がトリガーになったり、日々のストレスだったり、低気圧などの身体的苦痛、全く理由が分からない、など様々です。

内容は7~8割が自分のコンプレックスについてで、あとの2割が親や周りの人を失ったらどうしようという恐怖。小学生の時の失態や、中学生の時の黒歴史、数年前の失恋なんかを鮮明に思い出して「こうしておけば…」「今あの人に会えたら…」と考えるときもあります。ポジティブ期には受け入れられることでも、ネガティブ期だと考え込んでしまって、今更どうにもならないって分かってるのに忘れられないものですねぇ……。


それを毎回どうやって発散してるかって、私の場合は「文章にすること」なんですね。文章にすることで思考を整理して(あぁ、私はこう思ってたんだ)と認識する。ちょうど今もこのブログを書くことで思考を整理しています。
(普段は限られた人しか見られない世界にバーッと呟いて、数秒でダーッと削除してます())

 
そんな、矢花さんがいうところの”似たような波長を持っている”私だからでしょうか。矢花さんの言葉を必要以上に深読みしたり、ネガティブに受け取ることってほとんどないんですよね。ここが今回伝えたかったことです。

分かっていらっしゃるとは思いますが、100人が100人不安に思ったりもやっとしたりしてるわけじゃないよ、っていうことですね。私の場合は前回のweb、不安に思うどころか「聞きたかった話が聞けた!」とめちゃくちゃ興奮しました。速攻でブログをしたためるぐらいには嬉しかったです。


この”ダーク期” 正直めちゃくちゃ厄介ですが、そういう時期があるって自覚してるだけで違うんじゃないかな~と思ってます。いつか終わるものだと知っているのと、知らないのでは大きな差があると思うので。

私の場合は、この難有りな思考のおかげでなんとなく、あくまでなんとなくですが(ガチガチの予防線)矢花さんの考えていることや発言の意図が掴めるような気がしているので、まぁこれも悪くないなと、矢花さんを好きになって思えるようになりました。人生何が起きるか分からないものですね。


余談ですが、私は深夜目を瞑って考え込みそうになったときは『曖昧な美談』という曲の『理由もなく不安抱いて夜が来るたび思考の旅へ/足掻く藻掻く恨んで泣いて装う被害癖 無為な四時が鳴る』というパートを思い出して打ち消してます。「今この歌詞と全く同じことになってま~す!」といい意味で自分を馬鹿にする感じですね。
あとは、「あ」から始まる単語をひたすら羅列するとか、なるべく思考を止める方法を探して実践しています。難儀やなぁ……。


私に共感されてもうざったいだけかもしれませんが(急なネガ)矢花さんの発信でまた一人救われたよということだけお伝え出来たらと思っています。

矢花さんが健やかな朝を迎えられますように。
毎週更新ありがとうございます。

 

「発信力」という武器 (2021.09.22 vol.23)


お久しぶりです。うぐです。

今日も今日とて水バナの感想ブログ、という名の
矢花さんへの思いを綴っていこうと思います。

 

今回のテーマである「発信」

矢花さんがこのテーマに触れてくださったこと、めちゃくちゃ嬉しかったです。
というのも、矢花さんの最大の魅力って「発信力」じゃないかなと私は思ってるんですね。(異論は認める)

『知ってほしい』と思うだけでなく、
『知ってもらうために行動が出来る』ところ。

そこにかける熱量が本当に素敵で、尊敬するところです。

自らが好きで、得意とする楽器の演奏動画をあげてくれること。
機材の効果など専門的な“知識”を初心者にもわかりやすく紹介してくれること。
ブログで自らの考えを発信してくれること。
その上で「皆さんの意見も教えてください」と相互関係を生み出していること。

見ている側を傍観者にしない。
一歩踏み込ませる力が強いなと思っております。
 
そんな矢花さんだからこそ、私も何か発信したい、力になりたいと思うんです。矢花さんにこんなにも沢山のものをもらっているのに、返せないままでいいのかと。

 

水バナでもお話がありました「Hey! Say! JUMPさんのらじらーで、矢花さん・本髙さん・中村さんの名前が挙がったこと」、ファンの力が良い方向へ働いた最大の事例だったのではないかと思います。とても嬉しかったです。

でも、ファンが出来るのってそこまでなんですよね。

ファンの力によって、矢花さんの存在を伊野尾くんと八乙女くんに知ってもらうことは出来ても、実際にらじらーを聴いているJUMPファンの方を取り込めるかは矢花さん次第なんです。ここだけはファンにはどうしようも出来ないことで。

そこで翌日に「Dash!!」の演奏動画をあげる矢花さん、流石だなぁ~~…!と思いました。

気になった人だけに調べてもらおうという受け身の姿勢ではなく、自らJUMPのファンの方に目に映り込もうとする。その力強さが好きだなぁ、と。

 

「ラジオで名前が挙がる」って何度かあることだと思うんですよ。人によっては些細なことだと感じてしまうもので。

でもその『些細なこと』を『チャンス』だと捉えられるところが凄いんです。
そして、その上でちゃんと“刺し”に来る。

たとえDREAM BOYSの本番期間中で忙しかろうが、
チャンスをものにしようとする精神が素晴らしいなと感じました。


……熱く語りすぎましたね。

ファンが送ったものだからこそ、受け取って『チャンス』に変えてくれたことが余計に嬉しかったのかもしれません。

 
月曜から夜ふかしの街頭インタビューを自ら事務所に打診したことも、街中で男女グループに声をかけられたときに「7 MEN 侍」を宣伝しつつ断ったというエピソードも、いい意味で図太いところがアイドルに向いてるんじゃないかなと(勝手に)思っております。

 

隠し球」とか「秘密兵器」とか、全然隠してる場合じゃないんで。7 MEN 侍にとって、矢花さんにとって正しく力になれるように、全力で声を上げて、背中を押していきたいと思います。

ということで、手始めに各出演先への感謝はがきと要望はがき書いてきます✍️📮

いつもより短めですが(当社比)今日はこの辺で!

 

矢花さんと情報中毒の私 (2021.08.10)

 

こんばんは、うぐです。

とうとう矢花さんから話題を提供されていないにもかかわらず、自らブログを書こうと思い至るようになってしまいました。末期です。

とはいえ、本日8月10日は矢花黎さんのお誕生日。
“私らしく”矢花さんを語るには、やはり文章にするのが一番かなと思いましたのでこうして筆を執っています。

※なお、今回のテーマはお誕生日とは全く関係がありません。

今回は、日常生活で得た情報を自分と推しに置き換えて考えるクセのある私が、おそらく「好きな人は好き」であろうお話を思いついたので共有しようかと思います。

 

テーマ
「なぜ矢花黎を知ろうと思ったのか」

私、うぐは2021年の頭に自ら命綱を断ち切って、矢花さんという深淵に飛び込みました。(回りくどい言い方をするな)
友人からの布教があったわけでもなく、何か衝撃的な出来事があったわけでもなく、自ら「矢花さんを知ろう!」と行動し、現在に至ります。 当時の心境的には 「知らずにはいられなかった」という表現の方が正しいかもしれません。

では、なぜそのような衝動に駆られたのか。

それは私が「情報中毒」だからです。

 

(今回の紹介記事)

なぜ人は新しい情報を欲するのか: 「情報中毒」と「好奇心のパラドックス」

【要約】
①人が情報を得る時、脳でドーパミン(意欲・喜び)が分泌される
②脳は「既に知っている事柄」についてより深い情報を求める
③人は「自らの予測と実際の結果との差異を発生させる要因」=「知っている分野の中で自らが知らないこと」を埋めようとする
               

      
おそらく私は一般的な(とは)人よりも、この傾向が強いのだと思います。

知らないものを、知らないまま放っておけない。それが好きなもの(今回でいえばジャニーズ)であるなら尚更。かれこれ15年以上見てきたジャニーズの中で予測出来ないことがあるなんて……と一種の中毒のようなものです。

そんな私の前に「自分が知ってる“ジャニーズ”との差異を発生させる要因」として矢花黎さんが現れました。

私が矢花さんを認識したのは、たった一つのツイートがきっかけでした。

ジャニーズ楽曲大賞2020 @j_award
ジャニーズJr.の初ソロ曲が完全自作の時点で衝撃なのに、サイケデリックな曲調とファンという立場で聴くと胸がざわつく哲学的な歌詞、そして鬼気迫るパフォーマンスに度肝を抜かれました。矢花黎という深淵を覗くとき、彼もまたこちらを覗いているのです。
https://twitter.com/j_award/status/1358398613542424577?s=19

こんなことを言われるジャニーズがいるのか。
こんな文学的なファンのいるJr.がいるのか。
一体この曲はどんな楽曲でどんな詩なんだろう。

興奮とワクワクが止まらず、その日のうちに『矢花さんについて教えてください』とツイートしたのを覚えています。

この人を“知る”ことは絶対に楽しいことだと、確信めいたものがありました。

 

矢花さんに興味を持ち、矢花さんのことを好きになって(ここは理屈じゃ説明できないことが沢山ありますが)光陰矢の如し、半年が経過しました。

今は水バナで毎週激流のように浴びせられる情報量に歓喜しながら日々を楽しんでいます。

矢花さん自身のことも、矢花さんが語る音楽のこともまだまだ知らないことばかりで、未来がとても明るいです。

私と矢花さんを繋ぐキーワードは間違いなく、
『知る』ことだなと感じました。

 

もちろん、知りすぎるっていうのも怖いものです。

ひとつの情報に固執しない高いアンテナを持ち、情報を見極める眼力を養い、情報を振りかざさない謙虚さを持って、これからも楽しく生きていきたいものですね。

 

最後に矢花さんのご健康と更なる飛躍をお祈りし、本日のブログとさせていただきます。

今後ともよろしくお願いいたします!

 

 

忙殺される「表現」(2021.08.04 vol.016)


こんばんは、うぐです。
今回も例のごとく、水バナで語られたテーマについてお話ししていきたいと思います。

「表現」について

こうしてブログで堅苦しいお話をすることの多い私ですが、実は直感的で、感情に任せて物事を判断をすることが多い非合理的な人間です。
文章を書くことは私が唯一得意とする表現方法なのですが、他にも絵を描いたり、作詞をしたり、趣味の領域ではありますが色々な創作活動をしています。

「表現」をすることは昔から大好きでした。
でも私はそれを仕事にしようとは考えられませんでした。抽象的な分、現実味がなく不安の方が勝ってしまったのです。

だから、アイドルに限らず 表現で生計を立てている、立てようとしている方は凄いなと純粋に尊敬しています。

私は所謂「OL」で、これといって珍しい仕事はしていません。マニュアルや規則の通りに仕事をこなす、それでお給料を貰っています。ただそんな生活に慣れていくと、段々自分の意見を持つことが難しくなっていくんですね。
例えば、自分がこれまで従っていたマニュアルを刷新しようとなった時、今の状態が当たり前すぎて、何をどう変えるのが理想的なのか途方に暮れてしまうんです。もちろん「知識や経験が未熟だから分からない」という場合もあるのですが、それ以上にそもそもの思考をする/疑問を持つ脳が衰えているなと嘆かざるを得ない状況に陥っています。

この文章を書きながら、もしかしたら「表現」というものは芸術や音楽などの抽象的な、解釈の幅を持たせるようなものに限らず、『自分はこうしたい!という意志を持つこと』自体を指すのかもしれないなと感じました。それがなかなか出来なくなっているのかもしれません。


それともう一つ、冒頭で絵を描くのが趣味だというお話をしましたが、私が描いている絵には2種類あるんですね。
ひとつが風景や花などを描く「絵画」、もうひとつが所謂「FA(ファンアート)」と呼ばれる好きなアイドルやアニメキャラを描くものです。

前者はまぁほぼ間違いなく「表現」に当てはまるだろうと思うのですが、後者は……実は難しいところなんですよね。というのも、FAというのは表現と捏造の境目が非常に難しいジャンルで。自分の絵によって“描いた対象”が不利益を被るようなことがあってはならないわけです。
受け手によっては描いた側が意図していない捉え方をされる場合もあるので(これは絵に限らず、全ての表現に共通することですが)描く側もその責任を自覚して、出来る限り誤解を生まないような作品作りをしないといけないんですね。

ただそうなると当然、自分の表現したいものや頭の中のイメージが120%表に出せるわけじゃなくて。そうなると「これは表現や創作と呼べるのかな~」「私が描く理由ってなんだろうな~」とネガティブなことを思ったり、思わなかったりするんですよね。

もちろん自分のイラストがきっかけで推しのことを知ってもらえたり、雑誌を買うきっかけになったりなど、FAにしか成せないこともあって、自分が楽しいから描き続けているのですが、まだその『制限の中で満足のいく表現をする』ことが出来ていないので、もっともっと技量を養っていかないといけないなと思っています。

絵が上達すれば全て解決すると信じて!(強い意志)


「表現」について振り返ってみて、
着る服を選ぶのも、話す言葉を選ぶのも、ライブで白のペンライトを振るのも、全部表現なのかもと思ったら意外と些細なことなんだなと気づきました。

私よりも遥かに影響力のある矢花さんが感じているであろうプレッシャーや喜びは計り知れませんが、私もいい意味で誰かの記憶に残る表現が出来たらいいな、と思いました。

明日からもまた矢花さんと自分に誇れる自分になれるよう、人生の勉強頑張ります!


また7 MEN 侍に会える日を夢見て。

 

P.S. 矢花さんの「これが~僕なんです。」という言葉、とても心に響きました。音楽への想いが突出しているがゆえに、別の道を想像されることの多い矢花さんですが(私自身はあまり不安に思っていません)こうして言葉にしてくださることで救われることが沢山あるなぁ……と思います。異担侍日報があってよかった。ありがとうございます。

過去に戻るという選択② (2021.05.12 vol.004)

 

「もし過去に戻れるならどうしますか?」

#矢花黎に物申すというタグからこのブログを読んでいる方には見覚えのある問いかけでしょう。

異担待日報~侍ふ~矢花さん更新分vol.004で、矢花さんから読者に投げかけられた問いです。

 

このブログが投稿された5月12日、私も矢花さんに感化され、 自分の考えについてブログをしたためました。当時の私が出した結論は、「過去に戻ったところで自分自身が変わらなければ何も変えられない」 だから「過去に戻っても意味がない」 という、諦めの感情で溢れたとてもネガティブなものでした。

過去に戻るという選択① (2021.05.12 vol.004) https://kjfm9113.hatenadiary.jp/entry/2021/05/12/220845

 

しかし、そこから今日までの2か月の間で新たな考えが浮かび上がりました。

私はこのお題に向き合う上で考えなければならないあることを見逃していることに気がついたのです。

それは、

「もしも過去に戻れるなら」 を考えるのであれば、「なぜ自分が過去にその選択をしたか」を考えなければならない。

ということです。

人生にAとBという選択肢が現れた時、当時の私がAを選んだのには少なからず理由があるはずです。その選択によってもたらされた結論だけに目を向けて後悔をしても、理由に目を向けなければたとえ過去に戻ったってまた同じ選択を繰り返すに違いません。

最も、今私が思い浮かべることのできる無数の後悔のうち、その選択をした理由そのものが間違っていたと否定できるものは多くありません。

「やりたくなかった」「踏み出すのが怖かった」 あとから思えば怠慢だと思うような理由でも、苦痛だと感じた当時の感情を蔑ろにすることはできません。

それを考慮すると、不思議とあの時の自分の選択は正しかったんじゃないかと感じ始めました。当時の自分の感情を尊重し、自己を守った。 そう考えると、あんなに嫌いだった“当時の自分”を認めてあげられるような気さえしてきました。

私のような人間には難しいことだけれど、きっと生きていく中で自分がした選択は肯定してあげた方がいいのです。

なぜなら、過去にはもう戻れないのだから。

 


と、抽象的なお話をしたところで本編に入ります。

ここから先は「なぜ私が考えを改めることになったか」 というお話です。

この2か月で 私はある2つの考え方に触れました。

それは「①経済学」「② ファクトフルネス」というものです。(啓発本じみてきましたがこのまま突っ走ります。)

 

この2つのキーワードについて簡単に説明します。

①経済学

「経済学」 と聞くと数字やグラフが多く難しいイメージがあるかもしれませんが、実際はとても身近にあるものです。

経済学とは 「時間やお金が限られている中で、人間 (個人・家族 ・企業・社会)がどのような選択をするか」 について学ぶ学問です。持っているお金で何を買うか、与えられた時間で何をするか。私たちがわざわざ勉強せずとも、 日常的に行っているそれらについて研究をしています。 勘のいい人であれば、「選択をする」 というワードで今回のお話とのつながりを感じているかもしれません。

②ファクトフルネス

「ファクトフルネス」とはハンス・ロスリング氏 (医師・公衆衛生学者) が執筆した本の題名で、「人間が持つ10の思い込みを排除し、データをもとに世界を正しく見る習慣をつける」という意味が込められた造語です。人間は実際よりも悲観的に、ドラマチックに物事をとらえる習性がある。その偏見をなくせば世界に対してもっと肯定的になれるだろう、という内容が記されている本です。


さて、この2つのキーワードを頭に入れた上で

~~~ほんへ~~~


ファクトフルネスの中に記された10の思い込み”のひとつに「単純化思考」 というものがあります。「単純化思考」とは、 「ひとつの事柄に対しての原因や解答はひとつしかない」と決めつけてしまうこと。

例えば 「私にお金がないのは稼ぎが少ないからだ」 「私の稼ぎが少ないのは学歴が低いからだ」 といった感じです。 (これは実際に私が過去に戻ってやり直したいと思っていた"後悔です。)

確かにこれらは原因のひとつです。でも、それがすべてじゃない。

私にお金がないのは稼ぎの半分を遠征費として推しに会いに行くために使っているからでもあり、 毎月発売される雑誌やグッズを大した計算もせず購入しているからでもあります。 私の稼ぎが少ないのは残業のない会社で働いているからでもあり、職位が低いからでもあるのです。
 
お金がないことを稼ぎが少ないからだと決めつけてしまえば、 普段の自分の行動を省みる必要もなく、私の稼ぎが少ないのは学歴のせいだと決めつけてしまえば、自分の未熟さに目を向ける必要もなくなる。 無意識のうちに責任を過去の自分のなすりつけているのです。

今の自分の不満を作り上げているのは、 数年前の自分の選択"だけ"ではない。 そう考えられるようになると、過去の選択への後悔が薄れていきます。過去の自分に罪を着せるのはお門違いだと考えられるようになりました。


また、経済学を学ぶ中で、私は「機会費用」という言葉に出会います。

機会費用とは 「あるモノを購入した時、 人間はその他のものを購入する機会を失う。その機会を失うことこそが、そのモノを購入する費用だ。」という考えです。

例えば私の所持金が1,000円の場合、私は700円のフラペチーノを買うことも出来れば、700円のアイドル雑誌を買うことも出来ます。当然ながら両方を買うことは出来ません。ここで私が700円のアイドル雑誌を買った場合、私は700円という硬貨を物理的に失うと同時に「フラペチーノを買う機会」 も失います。ここで失われるフラペチーノが“機会費用”です。

この話は商品やサービスに限りません。時間も希少な資源として考えられます。 私がこのブログを書いている時、私は映画を見る機会を失っています。 私が7 MEN 侍を応援するために時間を使っているとき、 私は他の誰かを応援する機会を失っています。 私たちは複数ある選択肢のうち自分にとってより有益なもの、最も満足感を得られるものを手に入れるために、何かを諦めるという選択をしているのです。

経済学における原則として 「すべての選択は機会費用を持つ」という考え方があります。

つまり、私が過去にしてきた選択はすべて、その他の機会を諦めた上で成り立っているということです。言葉を返せば、過去の選択は当時の自分がその他のあらゆる機会を諦めてでも選び取りたかったものなのだと捉えることもできます。


私が読んでいる教本の中に以下のようなお話がありました。

【学位を取得 (大学を卒業) した方が生涯年収は高くなるのに、なぜ全員が進学しないのか?】

高校を卒業したあなたが「就職」をせずに「進学」をしたとします。 このときにかかる費用は、 何でしょうか?

まず目にみえる費用としては 「学費」と「生活費」です。テキスト代や授業料、 同級生や先生と食事にいくときの交際費などです。これは実際にサイフからお金が出ていくわけですからわかりやすい費用ですよね。

その一方で、私たちは目に見えない費用も支払っています。

ひとつは、大学生活に費やす 「時間」です。
日本の場合、短大なら 「2年間」、一般大学なら 「4年間」という長い期間を費やします。

もうひとつは「給料」と「職業スキル」 です。
もし高校を卒業したあと、進学せずに、就職していたら、この2つを手にしていたはずです。

もちろん 「仮のはなし」 です。

とはいえ、「進学or 就職」 の選択肢があるとき、一方を選ばず、もう一方を選択しました。 進学を選んだ時点で、 「就職で得られたはずの利益」を捨てた(=あきらめた)わけです。

 

引用元: https://rikizoamaya.com/opportunity-cost/

 

この話を読んだとき、 私は「ああ、だから私はこの道を選んだんだ」 と腑に落ちました。

先ほども少し触れましたが、 私は自身の学歴にコンブレックスを抱えています。 大学や専門学校で学んでいる友人たちの芝生が青く見え、周りに誇れるような知恵や技能 のない自分がとても中途半端な人間に思えて仕方がありませんでした。

純化思考で 「うちはお金がないから大学に行けないんだ」 と思い込んでいましたが、私は 「就職」 という道を選ぶことで、 周囲が失っている“目に見える費用”を手に入れ、親にかかる負担を減らし、奨学金という未来の自分にかかる負債にも手を出さず、 就職活動という先の見えない不安に苛まれることもない "確実”な現在を手に入れたのだと気づかされました。

いかにも冒険が大嫌いな現実主義らしい自分の判断だと笑うと同時に、当時の自分にとってはそれが最良の答えだったんだなぁと感じました。

 

もちろん、私は 「就職」を選んだことで「進学」という機会費用を捨てています。 大学に進んでいたら得られたかもしれない専門的な知識や新たな出会い、 思い出は持ち合わせていません。

それでも私は、この“自分らしい”選択を肯定してあげたい、と思いました。 いままでずっと否定的な意味合いでしか捉えることが出来なかった 「自分らしい」という言葉を、初めて受け入れられるような気がしました。

 

私はきっと「学のなさ」をコンプレックスにしているからこそ、「知ろうとすること」を大切にできているのだと思います。 (その結果、「知ろうとしない」人に憤ってしまうという負の側面もあります……。)

こうして経済学に手を出したのも、 矢花さんの動画を見てエフェクターを購入したのも、独学でやっていた絵を大人になって習い始めたのも、もちろん第一は自分が好きで興味があるからですが、その興味の根源はこの"不足感” が由来なのかもしれないなと皮肉ながら感じました。

とはいえ、「知る」ことを楽しいと感じる自分は大好きなので、これからはこのコンプレックスも含めて愛してあげられたらなぁ、と思いました。 (希望的観測)

 


さて、結論までお話しして約4000字弱、ここまで読んでくださっている人はいるのでしょうか。 PCに向き合うこと数時間、 経済学の云々を説明しているあたりでこれは誰向けのブログなんだろう……と虚無感に襲われることもありましたが、なんとか自分の考えをまとめることが出来てよかったです。

返答ブログではない主体的なブログを書くことで、改めて、というか初めて、矢花さんが毎週文章を綴ってくださることへのありがたさを実感いたしました。 また、それと同時に 「読者」を意識して文章を書くことの難しさも体感しました。 矢花さんの達者さを尊敬するばかりです。

 

長くなりましたが、 最後まで読んでくださってありがとうございました。

もしご感想・ご質問等ありましたらマシュマロへお願いします。批判的な意見はガン無視します、自身の価値観を否定される謂れはありませんので(強気)

 

それではまた次のブログで!