モボ朗読劇「二十面相」観劇後、思考する (2021.06.26 昼夜公演)

※このブログはモボ朗読劇「二十面相~遠藤平吉って誰?~」及び、江戸川乱歩作 少年探偵団シリーズ他、明智小五郎出演作品のネタバレを含みます。

 

こんにちは、うぐです。

先日、モボ朗読劇「二十面相~遠藤平吉って誰?~」を観劇してまいりました。6/26(土)の昼公演と夜公演を拝見したのですが、回ごとに矢花さんから受ける“明智小五郎”の人物像が変わって、とても面白かったです。

(あくまで個人的な感想ですが)昼公演の明智は狂気的でサイコパス。二十面相を打ち負かすことを楽しむ姿は純粋な子どものようでした。
一方、夜公演の明智は落ち着いていて底が知れない。小林少年の好奇心に呆れ、戒めるような言い方をしていたのが印象的でした。


さて、今回ブログを書いたのは、矢花さんがカーテンコールで以下のようなことをおっしゃっていたからです。
「この舞台は問題提起のような作品。」
「家に帰って考えるまでが二十面相。」
ということで、無い頭で考えを巡らせたいと思います。


明智小五郎はヒーローなのか』

〈前提〉
今回、公演が発表されてからの2ヶ月間で明智小五郎出演作品を8割ほど読ませていただきました。時間が足りず全てを読むことは叶いませんでした。面目ない……。そのため、登場人物や江戸川乱歩作品への知識は中途半端なものになっております。ご容赦ください。
本朗読劇を見たことで明智小五郎と小林少年に抱く人物像が変わりましたので、今後未読の作品と対峙することが楽しみです。(読み進める中で解釈が変わることがあれば都度追記いたします。)


〈目次〉

1.明智と二十面相の共通点と違い

2.正当化される明智の行動

3.小林少年に対しての印象の変化


〈本編〉

1.明智と二十面相の共通点と違い

明智は二十面相』『二十面相は明智』という言葉で始まる今回の朗読劇。明智と二十面相が表裏一体の存在であることは、原作を読んでいても強く感じました。ふたりには共通点と対になる部分が多数存在するからです。
常人の域を超えた知恵を持ち、誰にも見破ることが出来ないほどの変装の名人。そして、世間や互いをアッと言わせるパフォーマンス。ただ宝石を盗むだけなら、ただ二十面相を捕えるだけならもっと簡単に出来てしまうのに、あえて世間や周囲の人間に己の力を見せつけるようなところなんかはそっくりですよね。

ただ明智は「二十面相に屈辱を合わせる」という目的のためなら手段は選ばず、一方 二十面相は「人殺しはしない」という主義を貫いている。実際二十面相はその主義のせいで幾度も明智に打ち負かされています。……これだけ聞くと本当に明智が“表”で二十面相が“裏”なのか、怪しく思えますね。


2.正当化される明智の行動

原作「少年探偵団」シリーズ内で「日本一の私立探偵」として名声を博する明智小五郎。彼が事件を解決した話の巻末では毎回その名誉が称えられ、『明智先生ばんざーい。』という少年探偵団の声が響き渡ります。そして、その原作を読んでいる読者の大半も、かくいう私も「明智小五郎はすごい人だなぁ」と感嘆し、彼の異常さにはなかなか気づきません。

しかし、朗読劇中にも語られるように彼は「正当な目的のためなら手段も正当化される」と思い込んでいる人間です。二十面相が人殺しをしない主義とはいえ、子どもたちに危険な尾行や追跡をさせるなんて現代社会ならPTAが殴り込みに来ますよ。

そして流石の私でもビックリした案件。

少年探偵団 抜粋
「あの火事も、じつはぼくが、ある人に命じて、つけ火をさせたのですよ。」「いや、それには、ある目的があったのです。あなたがたが火事に気をとられて、この部屋をるすになすっていたあいだに、すばやく黄金塔の置きかえをさせたのですよ。」

黒蜥蜴 抜粋
「僕は火夫に変装して探偵の仕事をつづけるために、松公を縛って、猿ぐつわをはめて、絶好の隠し場所、あの人間椅子の中へとじこめておいたのです。そのため、松公(敵の部下)がああいう最期(海に投げ込まれる)をとげたのは、実に申しわけないことだと思っています。」

…………ええんか?
一切悪びれる様子がないことも含め衝撃的な事柄でしたが、作中で彼の行動が非難される描写はありません。

『法からも常識からも道徳からも自由』
悪役を倒すためなら暴力が容認されるヒーローと同じなのです。

ただ、彼を正義のヒーローと称するのには違和感を覚えます。
なぜなら彼の行動は「民衆のためではない」から。
彼はただ二十面相の思い通りにしたくないだけ。売られた喧嘩を買っているだけ。例えそれが結果的に被害者を助けることになっていても、彼に“善”の精神はありません。元々は定職を持たない謎解きが好きな書生だったわけですから、探偵事務所を立ち上げたのも人助けをしたいからではないのでしょうね。

朗読劇での『二十面相は東京中、いや日本中の人ををパァ~~~ッと驚かしたかったんです。子どもみたいなやつです。ただ二十面相が人を殺さないという主義を変えないのは感心したもんです。僕が二十面相だったら、その主義を守れるか自信がありませんからねぇ。ハハハ……。』という台詞、明智小五郎の本性をうまく表現しているなと感じました。

二十面相と明智小五郎、怪盗と探偵という立場が逆でなくて本当に良かったなと思うばかりです。


3.小林少年に対しての印象の変化

私が朗読劇の中で好きだったシーンのひとつ。『多分上手くいくだろうと思います!』と楽観的な小林に、明智が『小林少年は危険中毒、スリルアディクト。』と繰り返す場面。ダメだこりゃとがっくり呆れた様子の明智が人間らしくて、とても好きでした。

私は原作を読んだ時点では、小林のことをただ明智先生に憧れる有能な弟子としか思っていなかったため「危険中毒」という見方は新たな発見でした。「女装好き」「尾行好き」「命綱なしで綱渡りをしたがる」……思い返してみると確かに色々と思い当たる節があります。

今回の朗読劇を読んで思い出したのは『怪人四十面相』での小林の行動です。

怪人二十面相に誘拐され、押し入れに閉じ込められた小林はゴムふうせんと、座ぶとんと、ふろしきで、自分の身がわりをつくり、発煙筒に火をつけて、ドアのすきまから煙をだし、「火事だあ、火事だあ。」とさけんで二十面相をおびきよせ、二十面相が身がわり人形に、気をとられているすきに、部屋から逃げだします。二十面相は決して人を殺さないということを自慢にしていたため、「いけないッ、小林をたすけなければ……。」とわきめもふらずに煙の中に飛び込み、小林の計画通りに事が進むわけです。

このシーンを読んだ時、私は自分の中の“善と悪”、今回の話で言うこところの“裏と表”が分からなくなりました。小林は二十面相の主義を利用したわけです。確かに利口な手ではありますが、言ってしまえば「狡い」ですよね。

朗読劇中で『小林は予備軍』『未来の明智小五郎か、二十面相か』と言われておりましたが、世間にとっての悪か善か、どちらに転ぶか分からない怖い存在だと感じました。今彼の矛先は二十面相に向いていますが、二十面相がいなくなった時、彼はどんな道に進むのでしょうか。

 

というところで、

朗読劇というよりかは原作についてのお話になってしまいました。考えても考えても尽きない作品です。
明智と二十面相の戦いには明確な最後がないので、時代を経てもこうして様々な仮説が立てられ続けるのだろうなと思います。もしかしたら今もどこかで二人は知恵比べをしているのかもしれません。

 


あの男の本名が明智小五郎ということは以前聞いたことがある。しかしそれは、あの男と向き合う時には何の役にも立たない。
あの男はあなたであり、私であり、彼であり、彼女であり、誰かであって誰でもない。
あの男には数え切れないほど顔があり、名前もその時々で全く異なる。無数の名前、無数の顔。
それは私に、粒子が原子であると同時に、波動であることを思い起こさせる。
あの男は時間を超えてあらゆる場所に遍在する。
あの男は永遠に瞬間を生き続けるのである。

 

素晴らしい作品をありがとうございました。

 

(2021.07.02追記)

今回の舞台、明智は二十面相以上に二十面相であったと感じます。明智が二十面相と同じ歌を様々な声色で歌い上げるシーン、あれは明智と二十面相が表裏一体であることを表現すると同時に「二十面相に出来ることは僕にもできる」「僕は二十面相よりも優れている」という明智の誇示を表していたのではないかと、観劇された方の考察を読んで感じました。

二十面相の「自分でさえもどれが本当の顔が分からない」という言葉が、江戸川乱歩が読者の要望に応えようとした結果、本来思い描いていた“二十面相像”と乖離していったこと(死なせた場所で殺せなかったこと)と重なって何とも言えない気持ちになります。自己像を理想像に近づけようとした結果、自分を見失ってしまった二十面相。ファンの過度な期待は時にアイドルを殺すのかもしれません。自分の大好きなアイドルが同じ道を辿らぬよう、自分を戒めつつ歩みたいと思います。