『染、色』の余韻に浸る (2021.07.09)

こんばんは、うぐです。

本記事は本日配信されました舞台「染、色」を拝見しての感想/考察となります。よって、本編中のネタバレを大いに含みます(というか結末についてのお話ばかりします)のでご了承ください。
また、私は原作の方の「染、色」を読んでおりませんので、的はずれな発言ばかりしていたら申し訳ございません。これから読む予定ですので、考えが変わった部分があれば都度修正・追記いたします。

~本編~

正直、最初の展覧会で黒い影が出てきた瞬間に「深馬の別人格……?」と思いました。そしてそれは、深馬が初めて壁にスプレーアートを描くところ、真未が「深馬が眠ったあと」にしか現れないことでほぼ確信に変わりました。深馬は二重人格であり、真未は深馬と記憶を共有しない別人格でした。

私がこれにパッと気づいたのは、以前から二重人格や多重人格というものに興味があったからです。専門的な知識は全くないのですが、本作を見る前から二重人格にまつわる作品を読んだり、見たりしていたので、頭の中にそういった選択肢がすぐに思い浮かんだのだと思います。

素人が数年前に調べた知識なので、誤っていたら申し訳ないのですが、二重人格というのは元の人格、本作でいえば“深馬”の心を守るために生まれるものです。

深馬が抱える悩み。
実力以上のものを求められる環境や、自分よりも優れた人間がすぐ隣にいるという劣等感、評価されるものを描かなければという不自由さ、そして就職の焦りや父親の病気などなど……そういった抑圧から解放されたいという思いが真未を生み出したのだと思います。もしくは、そういう環境に“絵を描くことを楽しむ”という感情が奪われつつあることに焦った心がが生み出したのかもしれません。

二人が同一人物であることを考えると、深馬の『他の誰とも会っていない』という発言も、真未の『深馬が助けてって言ったんだよ』という発言も誤りでないことが分かります。

真未は、深馬の中の「絵を描くのが楽しい」という心そのもの。可能性に満ち溢れていて、『君はなんにだってなれる』と深馬に訴えかけます。ただし真未は深馬の「自由に絵を描き続けたい」という感情でもあるので、深馬がスプレーという“絵を描く道具”をなくそうとしたり、深馬が真未の存在を切り離そうとすると、ひどく焦って子どものように泣き喚いたり、深馬に縋ります。ただそれも全て深馬の心を守るための行動なんですよね……

真未と初めて一緒にスプレーアートを描いた時の深馬の嬉しそうな顔を思うと、真未と出会えてよかったねと思うと同時に、別の人格を作らないといけないところまで追い込まれていたんだな苦しくなりました。初めは白いスプレー1本で描いていた絵が、回数を重ねていくごとに色鮮やかになり、壮大になり、それと共に深馬と真未も親密になっていく。

深馬は真未と出会った当初、真未が腕に塗料を塗るのを見て『汚れ』だと言ったんですね。一方で真未はそれを『むしろ洗ってる』と、塗料にまみれた状態が正常なんだと言います。なんとなくですが、深馬が絵を苦痛だと思っている心情を表しているのかなと思いました。その後、深馬はその真未の思いに感化されたのか、杏奈が塗料を汚れだと言った時にひどく激高します。深馬の気持ちが真未に傾いている、依存し始めていることを感じました。
もしくは深馬の中の真未の人格が出てきた、とも捉えられるかもしれませんね。


最終的に、真未は深馬と統合します。真未は消えたわけではなく、深馬に戻っていったという解釈をしています。

理由としては、一番は服での表現。本作では白が深馬本来の色、黒が真未の色だと私は捉えています。基本白いシャツに黒いズボンを履いていた深馬が、ポリダクトリーという真未との思い出に依存するのをやめ、決別すると決意した後のシーンでは、上がグレーのパーカーになっています。(深馬と真未の統合が始まっている?)
そして、北見と原田と和解した瞬間、そのグレーの服を脱ぎ捨て、深馬は再び白のシャツに戻ります。もしかすると退院するまでの間に精神面での療養があったのかもしれません。
深馬が白に戻ると、ずっと黒ずくめだった真未が白いワンピースで現れます。真未がずっと叫んでいた苦しみがようやく報われたような気がして嬉しかったです。


深馬は大学を辞めず、絵を描き続けるという選択をします。留年したことで優等生というレッテルも剥がれ、就活への焦りや、実家に戻るという選択肢もなくなり、“自由”を取り戻しつつあるのではないでしょうか。

退院後、深馬がどのような作品をつくるのかは描かれていません。
真未と共に過ごしている頃、あるいは真未と出会う前のような生き生きとした絵を描き続けられるかもしれませんし、かえってまた死ねない絵を描き続けることになるかもしれません。

人の顔にスプレーをかけたり、己の作品を壊したり、自分にとって都合の良い虚構の記憶をでっちあげたり、楽しくも過激であった『真未』との生活。ポリダクトリーが滝川であるという“妄想”を作り上げている時、あの場にいたのは真未ではなく深馬でした。もしあの場で深馬が真未の言葉に落ちていたら、真未が主人格になっていたのかもしれません。

 

私は真未がいなくなってよかったとは思いません。こういう性格なのでどうしても真未に肩入れしてしまいます。だから、深馬にはこれからも真未という心をないがしろにせず、共存してもらいたい。

深馬が最期を迎えるとき、己の人生に悔いがないことを願うばかりです。

 

 

二十面相は定義? (2021.06.30 vol.11②)

『真夜中のオカルト公務員』という漫画を読みながら、ふと 「明智小五郎と二十面相」 はこの漫画でいう「宮古新とウェウェコヨトル」のような関係性ではないかと思った。

宮古新とウェウェコヨトル」 を超簡単に説明すると、安倍晴明の子孫である青年と神様だ。ウェウェコヨトルは神様であるために、 人間の常識は通用しない。ウェウェコヨトルは宮古と出会った当初、彼のことを 「晴明」 と呼んでいた。

ウェウェコヨトルの判断基準はこうだ。
①僕の声が聞こえること
②僕のことを「琥珀」と呼ぶこと (「琥珀」は晴明がウェウェコヨトルに付けた名前)
③晴明と匂いが同じこと
だから宮古新は 「晴明」なのだと言っていた。 そこに名前や容姿は関係ない。

明智小五郎も同様の思考だったのではないか。
明智を目の敵にしており、互角に渡り合える
②変装の大名人である
③世間を驚かせるようなことをしたがる
だから 彼は「二十面相」なのだと。その中身が遠藤平吉だろうが田中太郎だろうが関係なかったのではないか。

現に明智小五郎は二十面相の変装自体を見破っているわけではない。 犯行の手順から予測を立てて二十面相であろう人物を特定したら本当に変装だった、という解き方をしているのが常だ。二十面相に対してある種の信頼を抱いているように思える。(その結果、 二十面相に「白ひげの博物館長さんが、 実は怪盗二十面相だったなんて、いかにも明智先生好みの思いつきだ。」と言われている回もある)

そう考えると二十面相の中身が複数人いるという説もない話じゃない。なぜなら、二十面相が遠藤平吉である必要はないからだ。

もしかしたら"明智小五郎”という存在も「二十面相の正体を暴く側の人間」 をそう呼んでいるだけなのかもしれない。

名前?容姿?振る舞い?性格?思い出?
自分についての記憶をなくした友人を、以前と同じ気持ちで友人だと呼べますか?

私たちは何をもってその人をその人だと判断しているのでしょうか。

 

思うことをやめたくない (2021.06.30 vol.11)

こんばんは、うぐです。

矢花さん改めましてモボ朗読劇『二十面相』~遠藤平吉って誰?~ お疲れ様でした!

明智小五郎出演作品をある程度履修した後に観劇した身からすると、スズカツさんの二十面相・明智小五郎・小林少年の解釈が非常に分かりやすくて面白かったです。私の解釈と一致している部分もあれば、新たな発見となる部分もあり『読者の数だけ解釈がある』というのはその通りだなと感じました。

朗読劇の内容についての掘り下げ?思案?は、既に下記ブログで行っておりますので、今回は前編「自分語り」後編「I Know.の私の考察」についてお話しようと思います。

モボ朗読劇「二十面相」観劇後、思案する (2021.06.26 昼夜公演)
https://kjfm9113.hatenadiary.jp/entry/2021/06/27/150009


1.『思う』ということ

矢花さんのブログを読んで、ある経験を思い出しました。

それは私が、会社の社員旅行で石川県にある21世紀美術館を訪れた時のことです。
私は祖母の影響で昔から美術が好きだったので、21世紀美術館に行くこともとても楽しみにしておりました。自分のペースで回りたかったので一人でゆっくりと館内を回り楽しんでいたのですが、ふと耳にこんな言葉が届きました。

『アートとか意味分かんないよね(笑)』

同僚の集団の発言でした。

なんてもったいないんだろう。残念だ。

芸術に歩み寄ろうとしないその姿勢に憤ったことを覚えています。どうして分からないことを切り捨ててしまうんだろう。分からないことはつまらないことじゃないのに、と。

ちなみにその時に私が見ていた作品がこちらです。
https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=30&d=5

壁にある黒い(実際は青色だそう)楕円。
実際に見ると、窪んでいるようにも平面のようにも盛り上がっているようにも思えて、部屋の中にあるはずなのに底が見えない。得体の知れないパワーを持った作品です。
見ているとドキドキするのに、妙に落ち着く。何分だってこの作品の前に立っていられるような心地がしました。

そんな素敵な作品を、一瞥しただけでどこかへ行ってしまった。とても悲しかったです。

私がこの作品を楽しめるのは「知識があるから」ではありません。作者であるアニッシュ・カプーアさんの略歴も存じ上げませんでしたし、美術の技法も詳しくありません。与えられた情報でいえば、楽しめないと切り捨てた彼ら・彼女らと同じです。

何が違うのか。

「抽象的なものについて思う・考える気があるか」ただそれだけです。

「思う」とは…ある物事について考えをもつこと、信じること。眼前にない物事について心を働かせる、想像すること。

作者は何を伝えたいんだろう。何を表現したかったのだろう。この作品を作っている時どんな感情だったんだろう。そして、この作品を見て私は今どういう感情を持っているのだろう。

そう思いを馳せる時間にこそ、価値や意味があります。そこで得た解釈や感情に間違いはありません。
我ながら啓発本じみてきて怖いですが、これが私の考えです。

このブログを読んでいる中にもしアートが分からない方、何も感じないという方がおりましたら、「なぜ何も感じないのか」考えてみてはいかがでしょうか。

 

2. I Know.についての考察

前提条件。これは“私の”解釈です。
私の解釈を肯定する必要はありませんが、それと同時に否定することも出来ません(※矢花さんを除いて)

それを理解した上で、読んでくださる方はどうぞお進みください。ただ私の中でも不明確な部分が多く存在するため、文脈等支離滅裂になるかと思います。ご容赦ください。

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私の中には3つの解釈があります。

①最初の印象/感情を尊重したもの
②歌詞や台詞を読んで辿り着いたもの
③矢花さんのブログを読んで感じたもの

 

①最初の印象/感情を尊重したもの

私のI Know.の第一印象は「浮気された女の恨み歌」でした。もちろんこれは耳に入ってきた音や言葉のから得た印象なので、改めて歌詞を読み込むと結びつかないところもあります。が、確実に私が感じたものなので一応記しておきます。

・全編を通して女性視点

・全部聞いた~傷の苦しみまで
→恋人の過去を知った女性。

・言っちまえば~のらりくらり誑し
→改めて探ってみると今現在も彼が女遊びをしていることを知る。

・「私全部知ってるよ、本当はね……」
→彼を問い詰めはじめる。

・満たされたい渇望に手を染めりゃ
→自分だけを見てほしいという渇望。

・ギターソロ&ブルースハープは男女の言い合い、彼女の怒り

・素晴らしき世界~
→愛する彼のいる素晴らしい世界

・清くBring it on~
→好きだからこそ、その分裏切った彼のことが憎い。アンチに変わる瞬間

・あーだこーだ喚いて~止められぬ嫌悪
→言い訳がましい男に冷めていく。次第に溢れる激しい憎悪。もう顔も見たくないという彼への嫌悪。

・「私全部知ってるよ、本当はね?」
→彼を切り捨て、関係を終わらせる様子。

 

ですかね~…。矢花さんが意図しているものとは違いそうですが、まぁあくまで私のイメージなので…😌
個人的にはこの解釈が一番「その日暮らしのらりくらり誑し」という詩がしっくりくる気がしてます。これは私の、言葉に対する勝手なイメージなんですが、どちらかと言えば男性を指しているように感じるんですよね。私が女性だからでしょうか……。

 

②歌詞や台詞を読んで辿り着いたもの

これは矢花さんがサマパラ最終公演で語った「全てを知っている男」の話を主軸としています。

・全編を通して“物知りな男”視点
「私全部知ってるよ、本当はね」は彼が出会った女性の台詞

・全部聞いた~苦しみまで
→男は街で出会った女性から身の上話を聞く。

・言っちまえば~のらりくらり誑し
→男はその女性を「自分のことしか考えていない馬鹿な女だ」「こんな女に引っかかる男も馬鹿だ」と見下している。

・「私全部知ってるよ、本当はね……」満たされたい渇望に手を染めりゃ
→自分が見下している女が、自分が知らないことを知っていると言う。そんなはずはないという焦りと、俺にまだ知らないことがあるのならという好奇心。“何でも知っている男”は情報に飢えていた(渇望)そして女へ近づく。

・ギターソロ&ブルースハープ
→何があったんだ~~~!!!(考察しなさい)いやもうここが“説明されない”の最高ですよね。情景が動くようなギターの音や、途中から入ってくる叫び声や荒々しい息のようなブルースハープ、そして前後の歌詞の繋ぎを考えると、ここで何かがあった(男が知りたくなかったことを知った)ことは明白なのに、想像の余地しかない。好きだなぁ……。

すみません、感情が昂って話が逸れました。

真面目に話すと、ここで男は痴情に溺れていくんだと想像しています。自分が見下していた女に振り回され、自身も「こんな女に引っかかる男」になってしまう。自分の愚かさを知ってに絶望する。そんな場面かなと。

もしくは(少し話は飛躍しますが)女性は彼の母親で「実は私は貴方の本当の母親じゃありません、貴方の本当の母親は私が殺しました」と打ち明けられる、とか。今まで自分が信じてきたものが全て崩れさるような絶望と衝撃が表現されているのではないかと推測しました。うん、発想がいちいち残虐なのよ。

・素晴らしき世界~
・清くBring it on~
→世界は神ゲーでありクソゲー。感動し讃えたくなる時もあれば、全て壊してしまいたいほど地獄に感じる時もある。

・あーだこーだ喚いて そう甘くねえんだぞ
→歌詞通り。いくら喚いても声を上げるだけでは世界は変えられない。

・じきに沸き立つ心中
→「じきにはじまる心中」と歌っている回もあったそうで……お前を殺して俺も死ぬ、と殺気立っている。

・止められぬ嫌悪
→女への嫌悪と世界への嫌悪。そしてなによりも醜い“自己”への嫌悪。

・「私全部知ってるよ、本当はね?」
→ほら、だから言ったでしょう?と言わんばかりの一言。いつの間にか女に見下される側になっている。


……完ッ全にBADENDですね、これ。いや間違いなくそうなんだけど。
改めて文字に起こすとなかなかにヒステリックで、いかに私が幸せに満ち足りた物語を嗜んでこなかったかが分かりますね。そういう思考/嗜好だからしゃーない。

ただやっぱり全体を通して見ると、これが私の解釈として一番不整合がないかな~と思います。詰められてない部分も多いですけど、矢花さん自身も考察できる余地が出来るように作っているとの事でしたので、まぁ漠然としたイメージがあればいいのかな、と。あとは未来の自分に期待で(丸投げ)


③矢花さんのブログを読んで感じたもの

これは矢花さんがvol.3でお話されていた通りです。
情報の取捨選択を誤って、見たくない部分まで見てしまった男。あるいは嘘に踊らされて憤慨、疲弊してしまった男の様子が描かれているのかな、という。考察というか、受け売りです。
世界はただ美しいだけでも、醜いだけでもなく、そのどちらもが混在している。無数に溢れる情報の中で、どの情報を選び取り人生を豊かにしていくのかは“自分次第”だということで。“真実”を追求することだけが、幸せだとは言えないよねぇ……


というところで、非常に長くなってしまいました。
矢花さんほどじゃないからいいか(?)

自己肯定感の薄い人間ですけど、自分の感性だけは否定せずに生きたいものですね。


おしまい。

 

モボ朗読劇「二十面相」観劇後、思考する (2021.06.26 昼夜公演)

※このブログはモボ朗読劇「二十面相~遠藤平吉って誰?~」及び、江戸川乱歩作 少年探偵団シリーズ他、明智小五郎出演作品のネタバレを含みます。

 

こんにちは、うぐです。

先日、モボ朗読劇「二十面相~遠藤平吉って誰?~」を観劇してまいりました。6/26(土)の昼公演と夜公演を拝見したのですが、回ごとに矢花さんから受ける“明智小五郎”の人物像が変わって、とても面白かったです。

(あくまで個人的な感想ですが)昼公演の明智は狂気的でサイコパス。二十面相を打ち負かすことを楽しむ姿は純粋な子どものようでした。
一方、夜公演の明智は落ち着いていて底が知れない。小林少年の好奇心に呆れ、戒めるような言い方をしていたのが印象的でした。


さて、今回ブログを書いたのは、矢花さんがカーテンコールで以下のようなことをおっしゃっていたからです。
「この舞台は問題提起のような作品。」
「家に帰って考えるまでが二十面相。」
ということで、無い頭で考えを巡らせたいと思います。


明智小五郎はヒーローなのか』

〈前提〉
今回、公演が発表されてからの2ヶ月間で明智小五郎出演作品を8割ほど読ませていただきました。時間が足りず全てを読むことは叶いませんでした。面目ない……。そのため、登場人物や江戸川乱歩作品への知識は中途半端なものになっております。ご容赦ください。
本朗読劇を見たことで明智小五郎と小林少年に抱く人物像が変わりましたので、今後未読の作品と対峙することが楽しみです。(読み進める中で解釈が変わることがあれば都度追記いたします。)


〈目次〉

1.明智と二十面相の共通点と違い

2.正当化される明智の行動

3.小林少年に対しての印象の変化


〈本編〉

1.明智と二十面相の共通点と違い

明智は二十面相』『二十面相は明智』という言葉で始まる今回の朗読劇。明智と二十面相が表裏一体の存在であることは、原作を読んでいても強く感じました。ふたりには共通点と対になる部分が多数存在するからです。
常人の域を超えた知恵を持ち、誰にも見破ることが出来ないほどの変装の名人。そして、世間や互いをアッと言わせるパフォーマンス。ただ宝石を盗むだけなら、ただ二十面相を捕えるだけならもっと簡単に出来てしまうのに、あえて世間や周囲の人間に己の力を見せつけるようなところなんかはそっくりですよね。

ただ明智は「二十面相に屈辱を合わせる」という目的のためなら手段は選ばず、一方 二十面相は「人殺しはしない」という主義を貫いている。実際二十面相はその主義のせいで幾度も明智に打ち負かされています。……これだけ聞くと本当に明智が“表”で二十面相が“裏”なのか、怪しく思えますね。


2.正当化される明智の行動

原作「少年探偵団」シリーズ内で「日本一の私立探偵」として名声を博する明智小五郎。彼が事件を解決した話の巻末では毎回その名誉が称えられ、『明智先生ばんざーい。』という少年探偵団の声が響き渡ります。そして、その原作を読んでいる読者の大半も、かくいう私も「明智小五郎はすごい人だなぁ」と感嘆し、彼の異常さにはなかなか気づきません。

しかし、朗読劇中にも語られるように彼は「正当な目的のためなら手段も正当化される」と思い込んでいる人間です。二十面相が人殺しをしない主義とはいえ、子どもたちに危険な尾行や追跡をさせるなんて現代社会ならPTAが殴り込みに来ますよ。

そして流石の私でもビックリした案件。

少年探偵団 抜粋
「あの火事も、じつはぼくが、ある人に命じて、つけ火をさせたのですよ。」「いや、それには、ある目的があったのです。あなたがたが火事に気をとられて、この部屋をるすになすっていたあいだに、すばやく黄金塔の置きかえをさせたのですよ。」

黒蜥蜴 抜粋
「僕は火夫に変装して探偵の仕事をつづけるために、松公を縛って、猿ぐつわをはめて、絶好の隠し場所、あの人間椅子の中へとじこめておいたのです。そのため、松公(敵の部下)がああいう最期(海に投げ込まれる)をとげたのは、実に申しわけないことだと思っています。」

…………ええんか?
一切悪びれる様子がないことも含め衝撃的な事柄でしたが、作中で彼の行動が非難される描写はありません。

『法からも常識からも道徳からも自由』
悪役を倒すためなら暴力が容認されるヒーローと同じなのです。

ただ、彼を正義のヒーローと称するのには違和感を覚えます。
なぜなら彼の行動は「民衆のためではない」から。
彼はただ二十面相の思い通りにしたくないだけ。売られた喧嘩を買っているだけ。例えそれが結果的に被害者を助けることになっていても、彼に“善”の精神はありません。元々は定職を持たない謎解きが好きな書生だったわけですから、探偵事務所を立ち上げたのも人助けをしたいからではないのでしょうね。

朗読劇での『二十面相は東京中、いや日本中の人ををパァ~~~ッと驚かしたかったんです。子どもみたいなやつです。ただ二十面相が人を殺さないという主義を変えないのは感心したもんです。僕が二十面相だったら、その主義を守れるか自信がありませんからねぇ。ハハハ……。』という台詞、明智小五郎の本性をうまく表現しているなと感じました。

二十面相と明智小五郎、怪盗と探偵という立場が逆でなくて本当に良かったなと思うばかりです。


3.小林少年に対しての印象の変化

私が朗読劇の中で好きだったシーンのひとつ。『多分上手くいくだろうと思います!』と楽観的な小林に、明智が『小林少年は危険中毒、スリルアディクト。』と繰り返す場面。ダメだこりゃとがっくり呆れた様子の明智が人間らしくて、とても好きでした。

私は原作を読んだ時点では、小林のことをただ明智先生に憧れる有能な弟子としか思っていなかったため「危険中毒」という見方は新たな発見でした。「女装好き」「尾行好き」「命綱なしで綱渡りをしたがる」……思い返してみると確かに色々と思い当たる節があります。

今回の朗読劇を読んで思い出したのは『怪人四十面相』での小林の行動です。

怪人二十面相に誘拐され、押し入れに閉じ込められた小林はゴムふうせんと、座ぶとんと、ふろしきで、自分の身がわりをつくり、発煙筒に火をつけて、ドアのすきまから煙をだし、「火事だあ、火事だあ。」とさけんで二十面相をおびきよせ、二十面相が身がわり人形に、気をとられているすきに、部屋から逃げだします。二十面相は決して人を殺さないということを自慢にしていたため、「いけないッ、小林をたすけなければ……。」とわきめもふらずに煙の中に飛び込み、小林の計画通りに事が進むわけです。

このシーンを読んだ時、私は自分の中の“善と悪”、今回の話で言うこところの“裏と表”が分からなくなりました。小林は二十面相の主義を利用したわけです。確かに利口な手ではありますが、言ってしまえば「狡い」ですよね。

朗読劇中で『小林は予備軍』『未来の明智小五郎か、二十面相か』と言われておりましたが、世間にとっての悪か善か、どちらに転ぶか分からない怖い存在だと感じました。今彼の矛先は二十面相に向いていますが、二十面相がいなくなった時、彼はどんな道に進むのでしょうか。

 

というところで、

朗読劇というよりかは原作についてのお話になってしまいました。考えても考えても尽きない作品です。
明智と二十面相の戦いには明確な最後がないので、時代を経てもこうして様々な仮説が立てられ続けるのだろうなと思います。もしかしたら今もどこかで二人は知恵比べをしているのかもしれません。

 


あの男の本名が明智小五郎ということは以前聞いたことがある。しかしそれは、あの男と向き合う時には何の役にも立たない。
あの男はあなたであり、私であり、彼であり、彼女であり、誰かであって誰でもない。
あの男には数え切れないほど顔があり、名前もその時々で全く異なる。無数の名前、無数の顔。
それは私に、粒子が原子であると同時に、波動であることを思い起こさせる。
あの男は時間を超えてあらゆる場所に遍在する。
あの男は永遠に瞬間を生き続けるのである。

 

素晴らしい作品をありがとうございました。

 

(2021.07.02追記)

今回の舞台、明智は二十面相以上に二十面相であったと感じます。明智が二十面相と同じ歌を様々な声色で歌い上げるシーン、あれは明智と二十面相が表裏一体であることを表現すると同時に「二十面相に出来ることは僕にもできる」「僕は二十面相よりも優れている」という明智の誇示を表していたのではないかと、観劇された方の考察を読んで感じました。

二十面相の「自分でさえもどれが本当の顔が分からない」という言葉が、江戸川乱歩が読者の要望に応えようとした結果、本来思い描いていた“二十面相像”と乖離していったこと(死なせた場所で殺せなかったこと)と重なって何とも言えない気持ちになります。自己像を理想像に近づけようとした結果、自分を見失ってしまった二十面相。ファンの過度な期待は時にアイドルを殺すのかもしれません。自分の大好きなアイドルが同じ道を辿らぬよう、自分を戒めつつ歩みたいと思います。

追記についての御礼 (2021.06.16 vol.009)

 

こんばんは、うぐです。

私のブログも毎週恒例になってきました。

 

今回はブログの内容についての言及ではなく、矢花さんがとった“行動”そのものに対してのお話です。

 

「音楽」と「音が苦」の話については、私は現時点ではまだ「音が苦」を経験していない人間なので、特に語ることは出来ません。前回のブログを読んだ時も、まぁ苦しみながら弾くよりも楽しみながら弾けたらそれに越したことはないよね、と漠然とした感想を抱いたのみでした。

ただ、私の周りにも矢花さんのブログを読んで「音が苦は悪なのか?」と疑問を抱いた方がおりました。その方からお話を聞く中で、なるほど そういう経験をしていれば“音が苦より”という言い方は引っかかるのかもしれないな、と彼女の意見についても理解することが出来ました。

 

彼女の意見と、矢花さんのブログ 両方を見聞きした上で率直に思ったのは「音が苦を否定したいわけではないんだろうけど……」ということです。

なぜなら矢花さんだって「音が苦」を経験している人間だろうから。音楽大学という進路に進み、数々のステージで楽器を披露してきた矢花さんが、苦心してないわけがない。まぁこれも、今回のブログを読むまでは憶測でしかなかったのですが。

音楽の苦さ・辛さを経験した上で、あのような発言をしているのだから、きっとその思考に至るまでには様々な過程があったのだろうと推測をしておりました。

 

で、実際 今回のブログで「音が苦より音楽であるべきなのは“LIVEに限り”」だという追記があり、音が苦を否定する意図はなかったと本人の口から聞くことが出来たのですが。

 

正直、これが「矢花さんのブログの行間を正しく読み取れていた」のか「矢花さんを否定したくないから防衛本能が働いた」のか、判断がつきません。

(追記:矢花さんの意見に盲目的になっているのではないかと自身を疑ってこのように書きましたが、前述した彼女の意見を『反論』と称しているコメントにモヤっとしたので分厚いフィルターはかかってなさそうです。異論ではありますが、反論ではないと思っています。)

昔から文章読解は得意な方で、筆者の人柄も含めて何を伝えたいか読み解くことが出来る……と自負はしているのですが、国語のテストのように自分の理解が正しいか答え合わせ出来るわけではないので「矢花さんはきっとこう思ってるよ!」とは誰にも言えませんでした。

 

だから今回、追記という形で矢花さん自身が発信をしてくださってとても嬉しかったですし、安心しました。

 

実はここだけの話、vol.006で「人物像のズレ」についてのお話があった後、読者の中で解釈が二分化していることに、とてもモヤモヤしていたんです。

私は「理想像を自己像に引き寄せたい」と解釈したんですが、「自己像を理想像に近づけたい」と捉えてる方もいて。私は矢花さんの『情報を載せる』という発言から、今でも自身の読解が正しいと信じているのですが、答えは矢花さんにしか分からないから声を大にして発信するわけにはいかない。

そんなことをして、もし私の認識が誤りであれば、それこそ矢花さんの自己像と乖離した「矢花黎」が生まれてしまうわけで、私はそれに凄く怯えているんです。

当時は結局こんな弱音を矢花さんに吐くわけにはいかない、過干渉だとお手紙を書くことをやめてしまったのですが、今回のことで「読者の意見を読んで思うところがあれば、きちんと認識合わせをしてくれるんだ」と分かり、すごく救われましたし、信頼感が増しました。

 

多分これからも文章が真意と違った捉え方をされてしまうことはあると思います。私も、矢花さんも。どれだけ文才のある方だって、全員が正しく読みとれるような文章は書けません。多分。

多少解釈が違っても許せるところに追記をしていてはキリがないと思いますが、矢花さんが譲りたくない部分、誤解されたくない部分については、またこうして言葉を足してほしいなと思います。

 

矢花さんがその姿勢を続けてくださる限り、私も安心して水バナとそれに対しての感想を読み続けることが出来ます。

 

いつも本当にありがとうございます。

今後ともよろしくお願いいたします。

 

 

P.S.

先々週で言及した自撮りについて、先週今週と続けてアップしてくださって本当に嬉しいです。重ねて御礼申し上げます🙏

 

ロックの日 (2021.06.09 vol.008)

こんばんは、うぐです。

さて今週も水バナの備忘録です。今回は自分の意見と言うより純粋な感想です。

 

まず!一番に言いたい!

「”パフォーマンスと正確性”~」の一連の文章の流れが最高すぎる!!!!!!いや、いうて私も邦ロック詳しいわけではないんですが、そんなにわかでも”パフォーマンスが目を引くベーシスト”と言われたら、あの人が思い浮かぶわけです。あ~多分あの人かな~みたいな。そしたら、その予想が次の「ビターなステップ」という言葉で速攻確信に変わるわけです。最高か?

しかも、それだけでは終わらず「徹頭徹尾」「天国と地獄」「蒙昧」「流れ星を打ち落として」と続くなんて…読んでいて鳥肌が止まりませんでした。(勉強不足なので見落としてるものがあったらすみません)

あ~~~~ほんとこういうとこ、ますます好きになるなぁ…と思いました。言葉遊び大好きオタクなので。ありがとうございます。もっとしてください。

 

さてここから本題。ロックについて。といっても語るほどのものはないんですが・・・

まず最初に「ロック=解放」という矢花さんの言葉にはとても共感できるなぁ、と思いました。矢花さんのように歴史を知っているわけではないので、感覚的なお話ですが。ライブも同様で、”感情を自由にはき出せる場”という印象です。

まぁにわかの私が言うのもなんですが(予防線)矢花さんのお話を読んで、たとえば私がロックを一言で表すなら「破天荒」になるかなぁ、なんて考えてました。

破天荒とは…前人のなしえなかったことを初めてすること。前人未踏の境地を切り拓くこと。 

 最近は「豪快で大胆な様子」と誤用されることも多い言葉ですが、この誤用されている方の意味も含めてロックってそういうものかなぁと、ロックな生き方と言われたらこういう人のイメージが思い浮かぶな、と思いました。矢花さんのことも破天荒な人(これは正しい方の意味)だなぁと思っています。

 

コロナ禍になって、声が出せなかったり、密の回避だったり、客側としてはなかなか”感情を解放できる”ライブが出来なくて悲しいなぁと感じます。ライブハウスに行って、拳をあげて、声出して、ヘドバンして、モッシュして……あの楽しみを知ってる人間としてはなかなかに息苦しさもありますが、いつかまた出来ることを夢見て感染対策するしかないですよね。

そしていつか絶対、7 MEN 侍のライブでも同じ楽しみ方をしたいです!実際問題かなり難しそうだけど!(ぴえん)モッシュとヘドバンは無理だとしてもオルスタと拳は是非実現してほしいですね……。厳しそうなら矢花さんのマイクスタンドがある上手側を「暴れたい人用」スペースにしてください。お願いします🙏🙏

 

大分話が逸れましたが、私もライブは7 MEN 侍との戦いだと思って参加しているので、これからも感情のぶつけ合いしていきましょう。

ちなみに今のところは私の完敗です!!!矢花さんカッコよすぎんだよチクショー!!!!

 

P.S. 矢花さんに影響されてエフェクター買いました!BOSSのOD-3です🎸エフェクター専門店のお兄さんに、矢花さんの動画の中から私が特に好きな音色を聴かせて「こういう音が弾きたいんですけど~」と相談させていただきました。今回はオーバードライブだけ買ったんですけど、色々とエフェクターの効果を教えてもらう中で興味が深まってきて、既にコンプレッサーが欲しくなってます…😅 ただ増やすとなるとパワーサプライやパッチケーブルも買わないといけないので、いっそのことマルチ買うか?と悩んだり……これか沼の入口かと痛感しています😂😂

「運命」を信じる時 (2021.06.02 vol.7)

こんばんは、うぐです。

今日も今日とて水バナ読了後ブログです。

 

本日のお題「運命を信じるか」

「運命」とは、人間の意思を超えて、人間に幸福や不幸を与える力のこと。あるいは、そうした力によってやってくる幸福や不幸、それの巡り合わせのこと。

結論から言うと、今は信じていません。運命だなんて大層なこと自分には起こってないからです。ちょっと運が良かったり、悪かったり、努力してみたり、しなかったり…そういう小さな積み重ねで今があると思っています。まぁその”ちょっと”を運命だと捉えるならそうかもしれませんが、なにせ現実主義なもので、この先もよほど劇的な事象がないと信じないかなぁ…と思っています。宿命・天命・使命についても同様です。というか、この3つに関してはそんなしんどいものあってほしくない。

ただ、「運命」を「成り行き」だと捉えるならば、ひとつだけ思い当たることがあります。

『推しとの出会い』です。

誰かのファンになって、過去のことを知ると「もっと早くに好きになってれば…」と思うことが多々あります。矢花さんも例外ではありません。もっと早く好きになってサマパラのI Knowをこの耳で聴きたかったし、サマステのGuiltyがヤバかったと聞いて見たかったなぁ…と思っています。

でも、改めて考えてみると、きっとあの瞬間にしか落ちなかったんだろうなと思うんです。私はI Know.に関するオタクのツイートを見て”矢花黎”というアイドルが気になって仕方がなくなりました。だから多分 I Know.発表前に”気になる存在”から繰り上げされることはなかったんだろうと思います。矢花さんの過去が変わらない限り、私の過去も変わらないだろうと。

そして、サマパラから数ヶ月が経ったあの冬、あの瞬間に”何か”があって、私は矢花さんを好きになりました。

私が運命を信じるのなら、それはただひとつ その“何か”だけだと思います。